【参加報告】第 8 回 MIN-IREN FESTIVAL
ハンセン病から、「人権とは何か」を一緒に考えた一日
2025年5月31日、東京・多摩で開かれた「第 8 回 MIN-IREN FESTIVAL」に、栃木民医連の奨学生と職員が参加しました。
全国から集まった医系学生たちとともに、1日目のテーマは「ハンセン病問題」からの学びました。過去の歴史にとどまらず、いまを生きる私たち一人ひとりが考えるべき「人権」について、真剣に向き合う時間となりました。
「知ること」から始まる学び
この日の講師は、国立ハンセン病資料館の大高さん。
「今日は笑いはありません」――冒頭でそう話された大高さんの姿から、このテーマの重さと誠実さが静かに伝わってきました。
ハンセン病は、らい菌によって起こる感染症で、今ではきちんと治療ができ、発症者もほとんどいません。
けれど、今日の話の核心は「病気」ではなく、「その病気にかかった人たちが、どれほどひどい差別を受けてきたか」ということでした。
胸に刻まれた証言と事実
大高さんの講義では、写真パネルや映像も交えて、療養所での暮らしや入所者の証言が紹介されました。
たとえば、療養所では――
- 結婚は認められても、子どもを産むことは許されなかった
- 妊娠すれば強制的に中絶され、胎児はホルマリン漬けにされる
- 亡くなっても家族の墓に入れず、今もなお療養所内の納骨堂で眠っている
そんな事実に触れ、私たちは言葉を失いました。
中でも、入所者・桜井さんの証言は強く心に残りました。
手術が失敗し、妻が妊娠。6ヶ月で中絶され、生まれてきた赤ん坊の命は短いものでした。
それでも桜井さんは、その子に「真理子ちゃん」と名付け、名前のいらないはずの命に、確かな存在の証を残したのです。
「自分ならどうする?」と問われて
1954年に熊本県で起きた「黒髪小学校事件」も紹介されました。
ハンセン病患者の子どもたちが地域の小学校に通おうとした際、保護者たちが「うつるのでは」と反対し、入学を拒否したのです。
子どもたちは患者ではありません。ただ「親がハンセン病だった」という理由だけで、学ぶ機会を奪われました。
「もし自分がその時代に親だったら、どう行動しただろう」
ある参加者の言葉に、私たちはハッとさせられました。
差別は、知識だけでは防げない。
ときに、正しいとわかっていても「空気」に流されてしまうことがある――
それが、「私たち自身も差別する側になり得る」という、厳しくも大切な問いでした。
この事件をもとに映画『あつい壁』を制作した中山監督は、当時の地域の様子を振り返りながら、印象的な言葉を残しています。
「多くの人は、ハンセン病がうつらないことを“頭では理解していた”。けれども、感情がそれに勝ってしまった。科学が感情に負けたのだ」と。
この一言には、私たちがいま向き合うべき本質が込められているように思います。
「昔の話」ではないという現実
「ハンセン病問題って、もう終わったことじゃないの?」
そう思っていた人も、少なくなかったかもしれません。
けれど、2023年の全国意識調査では、
「入所者と親戚になりたくない」「手をつなぐのは抵抗がある」
そんな声が、いまの社会にも根強く残っていることが明らかになりました。
さらに、療養所で亡くなった方の多くは、今も故郷に帰ることができず、納骨堂で眠っています。
差別は、生きている間だけでなく、死後も続いているのです。
「伝えること」が未来につながる
ハンセン病隔離政策の根幹には、国の誤った政策と、それを支えた法制度の問題がありました。療養所への強制隔離は、憲法に定められた「居住・移転の自由(第22条)」や「幸福追求権(第13条)」を著しく侵害するものであり、2001年の熊本地裁判決では明確に「憲法違反」であると断じられました。
裁判所はこの政策によって、「人生そのものを奪う被害がもたらされた」と述べています。隔離政策が長く続いた背景には、差別や無知だけでなく、国家権力が暴走した歴史的事実があることを、私たちは見過ごしてはなりません。
講義の最後に、大高さんはこんな問いかけを残しました。
なぜ人権は大切なのか。なぜ差別はいけないのか。
それは、人の人生の可能性を奪い、人生そのものを止めてしまうからです。
真理子ちゃんの人生がもし続いていたら、今ごろは70代。
家族に囲まれて、笑っていたかもしれない。
でも、その可能性は奪われてしまった。二度と戻ってこないのです。
だからこそ、私たちは学び、伝え続けなければならないのだと思います。
「差別は良くない」とただ言うだけではなく、その意味を、自分の中に深く問い続けること。
それこそが、差別のない社会をつくる第一歩なのだと、気づかされた一日でした。
この学びが、将来医療に携わる私たち一人ひとりの「原点」となるように。