被爆体験から伝える平和の大切さ – 山本誠一さん講演より

原爆で奪われた幼い命と戦争の悲惨さ

長崎への原爆投下があった1945年8月9日、山本誠一さん(当時10歳)は爆心地から約8.5キロ離れた茂木町で友人と遊んでいました 。突然、空を飛ぶ爆撃機の轟音の後に閃光が走り、大地が激しく揺れました 。山本さんは地面に叩きつけられて気を失い、目を覚ますと友人の姿が見えなかったといいます 。後に聞いたところでは、その友人は家族に抱えられて避難したものの、激しい下痢などに苦しみ、被爆から約60日後にわずか9歳で命を落としてしまいました 。山本さんは「次は自分の番ではないか」と恐怖に襲われ、幼い心に戦争の恐ろしさを深く刻み込まれたといいます 。原爆による放射線で下痢や脱毛などの急性障害が起きていたことを知るのは、ずっと後になってからでしたが、幼少期の体験は一生消えることのない記憶となりました。

原爆投下直後の長崎では、人々が体験した惨状は言葉に尽くしがたいものでした。山本さんの仲間の被爆体験者によれば、「原爆が落ちた後、紙切れや黒いものが大量に雪のように降ってきた。川の水を飲む時には、浮かぶ灰をよけてすくって飲んだ」という証言もあります 。爆心地近くでは黒焦げになった人々が水を求めてさまよい、町は悲鳴と呻き声に包まれていました。山本さんは自身の体験とこうした証言から、戦争と原爆の悲惨さを強く実感し、「原爆がどれだけ悲惨な結果をもたらすか、世界に対し明らかにするためにも取り組みたい」と感じるようになりました 。この思いこそが、山本さんがその後も被爆の実相を伝え続ける原動力になっているのです。

「被爆者」認定を求める長年の闘い

しかし、山本さんが被爆した茂木町は当時国が指定した「被爆地域」の外に位置していたため、長らく国から公式な「被爆者」とは認められませんでした 。原爆投下後、政府は一定の区域内にいた人だけを援護対象とし、山本さんのように爆心地から半径12キロ圏内にいながら支援を受けられない人たちが取り残されてしまったのです 。こうした人々は、自らを「被爆体験者」と称して差別的な扱いに異議を唱え、援護拡大を求める運動を続けてきました。

山本さんは2001年に志を同じくする仲間16人とともに「長崎被爆地域拡大協議会」を結成し、被爆地域の拡大と被爆者健康手帳の交付を求めて活動を始めました 。長年にわたり国や自治体への要請や裁判闘争を続け、「すべての原爆被害者を一人残らず救済してほしい」と訴えてきました 。近年、広島での「黒い雨」裁判で爆心地から約30キロ離れた住民までも被爆者と認める判決が確定したことは長崎の山本さんたちに希望をもたらしました 。実際、長崎でも2022年に県の専門家会議が「長崎でも原爆由来の雨が降った」と認める画期的な報告書をまとめ 、2024年には長崎地裁が一部の被爆体験者を被爆者と認定する判決を出しています。山本さんは「広島の『黒い雨』被害者を救済し、長崎の被爆体験者を認めないのはおかしい」と強く訴え 、この判決をすべての被爆体験者救済につなげようと尽力しています。

しかし国の対応は依然として慎重で、長崎県や長崎市も国の方針に沿って控訴し、全面救済には至っていません 。政府は被爆体験者に対し被爆者と同等の医療費助成を行う措置を講じ始めましたが 、肝心の「被爆者健康手帳」の交付は見送られています。このため山本さんたちは「名前だけでも『被爆者』と認めてほしい」という思いで、高齢となった今も闘いを続けているのです。「残された時間は少ない」という焦りの中、一日も早く全ての被爆者が等しく認められるよう、山本さんは仲間とともに声を上げ続けています。

医療関係者と支援団体の取り組み

長崎では、医療従事者や支援団体も被爆体験者を支えるために積極的に動いてきました。長崎民医連(民主医療機関連合会)は被爆地の医療ネットワークとして、被爆者支援と核兵器廃絶運動に長年取り組んでいます 。2012~13年には長崎民医連が協力して被爆体験者194人の聞き取り調査を行い、そのうち約6割もの方に下痢・脱毛・紫斑など放射線による急性障害の症状があったことを明らかにしました 。これは「被爆地域外には放射線の影響がなかった」とする国の想定を覆す貴重なデータとなり、被爆体験者の救済を求める科学的根拠の一つとなっています。調査に携わった医師は「国の被爆者援護行政は予算ありきで物事を決めており、根本的に間違っている」と指摘し、医学的見地からも被爆体験者への支援拡充を訴えました 。

また、長崎民医連の加盟病院や介護施設の職員たちは、被爆体験者に被爆者健康手帳を交付するよう求める署名活動にも協力しています。例えば2024年7月には、長崎被爆地域拡大協議会の池山道夫会長や長崎民医連のメンバー約10人が街頭に立ち、被爆体験者の速やかな救済を求める署名を市民に呼びかけました 。こうした市民運動によって集められた署名は、国や自治体への要請に活かされ、被爆体験者問題への世論喚起につながっています。医師や看護師をはじめとする医療関係者が被爆者健康相談会を開いたり、証言記録の聞き取りに参加したりするなど、地域ぐるみで被爆者を支える取り組みも広がっています。山本さん自身、「(救済への)第一歩ではあるが、これを本当に実のあるものにするには市民の皆さんの支持が必要です」と語り 、被爆者支援には社会全体の理解と協力が不可欠だと強調しています。

核兵器のない世界へ:平和への願い

山本さんは、自身の苦しい体験を語ることが平和への一助になると信じ、若い世代や医学生に向けて講演活動を続けています。その語り口は穏やかですが、「二度と自分たちのような被害者を出してはならない」という強い信念が込められています。戦争の悲惨さを知る山本さんは、「人類が過去の原爆被害と真摯に向き合ってこそ、《核なき世界》が実現できる」と信じています 。被爆地・長崎の一人の語り部として、彼は平和の尊さと核兵器廃絶の必要性を訴え続けているのです。

現在、被爆者の平均年齢は80歳を超え、語り部たちの高齢化が進んでいます。それでも山本さんは、「被爆の実相を後世に伝えることが私たちの使命です」と語り、一日でも長く平和活動を続けたいと願っています。長年の運動の中で、2021年に発効した核兵器禁止条約(TPNW)にも大きな期待を寄せています。山本さんや被爆者団体は日本政府に対し、この核兵器禁止条約に署名・批准するよう強く求めています 。核兵器の惨禍を知る被爆者として、同じ苦しみを世界の誰にも味わってほしくないからです。

最後に、山本さんは講演でこう呼びかけました。「平和は何より大切です。過去の悲劇を繰り返さないために、私たち一人ひとりが戦争と核兵器の恐ろしさを学び、伝えていきましょう。」長崎での被爆体験から生まれたこのメッセージは、今を生きる私たちに平和の尊さを改めて考えさせてくれます。山本さんの穏やかな語りの奥にある強い平和への願いを胸に、私たちも核兵器のない明るい未来の実現に向けて行動していきたいです。